1999年07月15日

降誕 nativty












7月15日
 星明りに照らされながら小原紅葉は急ぎ足で学校から家への道を歩いていた。
  8月に行なわれる劇の発表に備えて、峰台中学校の部活動は、放課後の許されるぎりぎりの時間、7時過ぎまで続いていた。
  紅葉も練習に熱の入った一人だった。と言うよりもっとも熱の入った人間かもしれない。
  主役だからということもあるがそれだけではない。峰台中学校の演劇部に入った時から『ハムレット』のオフィーリアや、『ローマの休日』の王女など、主役を務めてきた。二つとも紅葉の好きな芝居だ。2つとも紅葉は全力で演じた。でも今回の芝居は紅葉の中で違う価値をもっていた。
  芝居の名を『PANDORA』という。ギリシア神話に描かれるパンドラの箱をモチーフに作られたもので、3年ほど前に公開された。
  それもただ一回。TDLに程近い駐車場で一回だけ。舞台もテントであったし、舞台背景といったら夜景のみであった。
  それでも小学生だった紅葉は母の葉子と一緒に見て、演じるということに目覚めたようなものだった。
  紅葉は空腹を覚えた。舞台に立っているときは集中してしまって何も感じてないが、こうして小原紅葉に帰ると身体はもう立っていられないくらいだし、お腹も音が止まらないくらい空いてしまっている。
「恥かしいなあ」
  誰もいない事に感謝しながら紅葉は足を速めた。
  紅葉の家のある宮本は戦前からの家が多く、塀は高く薄暗い。その中で怖いのは塀から飛び出して見える木々だ。
  幼稚園の頃から、木々が童話や、子供の頃見たディズニーの映画のように、いたずらしてくるような気がしてくる。
[あいかわらずこの道長いな]
  ぼんやりと歩いていた紅葉は立ち止まって周りを見た。
「あれ?」
  塀の上の木々は今までと変わらず鬱々と茂っているが、そこは知らない場所だった。振り返ってみれば同じような道がずっと続いている。
  紅葉は笑った。毎日のように通っているこの道が知らない場所のわけは無かった。
[気のせい気のせい]
  街灯の薄暗い輝き、高い塀、古めかしい煉瓦の舗装。疲れもあってきっと錯覚してしまっている。
  紅葉の後ろの方で何か音がした。
「気のせい気のせい」
  そう口に出した程、聞こえてきた音は大きく、気のせいだとはどうしても思えないものだった。
  紅葉が振り返ると暗がりがあるだけだ。街灯がぱちぱちと音を立てた。遠くからまるで何かが伝わってくるように街灯が次々と明滅する。
  一際大きく街灯がはじけた。
  闇の中、赤い火が二つとともっていた。紅暗がりと思ったものは大きな犬だった。
  火に似た目が紅葉を射すめている。紅葉は犬を見た。
  どうしてその赤い火のような目なのか。充血しているわけではない。
  疑問が頭の中で弾いた。それは直ぐに終わった。犬がくると疑問は悲鳴になって響いた。
「こないで」
  犬は笑うように大きく口をあけると飛び掛った。
  光が踊った。
  そう思った刹那、犬の身体は宙で止まっていた。
「aNNu」
  紅葉に襲い掛かってきた犬は情けない声を上げながら地面に転がった。犬の背には何かナイフのようなものが突き刺さっている。
  驚きと恐れに動けない紅葉はのた打ち回る犬を見つめた。
  紅葉と犬の目が合った。
『なに、これ?』
  赤い犬の目は何か紅葉の中で不快感を与えた。
  犬の目に見えるものが本能のもたらしたものではなく、知性のもたらしたもののように思えた。獣性のもたらす衝動を感じさせる怒りではなく、それ以外の何かだ。
  しかしその何かに捕らえられたように紅葉は動けずに立ち尽くしていた。
「逃げれば」
  冷やかな響きを持った声だった。
  紅葉は声の方を見た。
  薄暗い街灯を背にして紅葉より少し年上と思われる見慣れぬ制服姿の少女が立っている。
  立ち上がった犬は少女に向かい襲い掛かった。少女の口元に小さな笑みが漏れるのが紅葉には見えた。
「失せろ」
  少女の手には刀が握られていた。流れるように動いた手が犬の身体をなぞる。
  犬の身体は切り裂かれていった。
  土砂降りのような降りかかる血を紅葉は見た。だが、血は地面に落ちる前に宙できえていく。犬の姿もぼやけたと思うと実体を無くし、暗闇だけがそこに残っている。
「使いか」
  少女は小さく呟いた。
「ありがとうございます」
  紅葉は震えの残る声で言った。
「夜道には気をつけなさい」
  少女は紅葉に背を向けて歩き出した。
「あの」
  風が吹いて砂を巻き上げた。
  紅葉がまたたいた間に少女の姿は消えていた。

7月16日
 8時になって校内放送のT・スクエアの音楽が聞こえてくると、登校してくる人間が増えて、それに負けないくらいクラスの中で飛び交う声が大きくなった。
  峰台中学校3年G組のいつもの朝の風景だった。
  小原紅葉は窓際の自分の席に座り、横の小松成美と昨夜の事を話していた。
  部活帰りにあった昨夜の異変は紅葉に強い印象を残していた。
  あの少女の事や犬のこと。見慣れたけれども違う世界。
「そんな事があったんだ」
  紅葉の犬と少女の事を熱心に話したのに成美の答えはそんなものだった。紅葉は少し非難をこめながら言った。
「本気で聞いてる?」
「当たり前じゃない。親友の言葉を信じないわけないでしょ」
  熱心過ぎてふざけているのが分かる成美の言葉だった。紅葉は頬を膨らませた。
「紅葉、普段ね、竜になれる男の人がタイプとか言っていたら信じて貰えるのも信じて貰えなくなるのよ」
「うっ」
(いつも言ってるな確かに)
  紅葉はちょっと古風な家長の四兄弟の長男を思い出した。
  予鈴が鳴って、待っていたように担任の村上春子が入ってきた。成美はあわてて自分の席に戻っていく。
「おはようございます」
  いつものようにのんびりとした村上先生の声だった。
「どうぞ入って」
  いつもと違い後ろから一人の少女がついてきている。
「今日から新しいクラスメイトが加わります。五月さん、挨拶をどうぞ」
(静かそうな子だな)
  それが紅葉の感想だった。
「五月明です。宮崎県の宮崎中学から来ました。よろしくお願いします」
  挨拶して頭を下げるとメガネにまで長い前髪がかかった。
「じゃあ、席は小原さんの横が開いてるわね」
  明は軽く挨拶すると紅葉の横に席に座った。
「小原です。よろしく」
  紅葉の笑顔に明は小さく微笑んで返した。




「ごめん遅くなっちゃたね」
  小原紅葉の言葉に五月明は首を横に振った。
  傾いた日が差し込む穏やかな春の宮本を二人は歩いていた。
  転校初日、部活見学をしていた明は最後に紅葉のいる演劇部を訪れた。演劇部が活動している旧体育館は学校の中で一番駅に近いこともあって、校舎から順に部活動しているところを順番に回ってくると最後になる。
  結局、明は気に入ったようで練習が終わるまで演劇部の見学しており、紅葉と二人で帰る事になった。
「何か大きく見えた」
  小柄なので紅葉からするとかなり嬉しい。
「いい女優さんなんだね」
「ええと、コツがあるの。心の中でいう時は言うほうの逆を見てまず言うとか。手とか指先とか意識して身体を動かすとか」
  明は身振りを手振りをいれて説明を始めた。明は小さく首を横に振った。
「そういうのとは違うの。まるであなたがパンドラみたいだった」
「照れちゃうな」
  紅葉はちょっと顔を赤くした。
  舞台の上では何でもできるのに、こうして素の時に言われると紅葉は恥かしい。
  にこやかに答えていた紅葉の足が止まった。そこは昨日犬にあった辺りだった。
(怖くない、怖くないよ)
  思い出された恐怖が心に満ちようとしていた。血の気がひくのが自分でも分かる。
  紅葉の手が暖かいものに包まれる。明が紅葉の手に重なっていた。
「ごめんぼんやりしちゃって」
「だいじょうぶだよ」
  優しい明の声なのに、つい気になって紅葉はきつい声で言った。
「何がだいじょうぶなの?」
「顔真っ青だし、体調悪いんでしょ。でも、もう元気みたいだね」
  あっさりと明は言った。ただ、心配しているのが分かる明の顔を見て、紅葉は小さく笑った。
「そうだね、ごめんね」
「紅葉」
  明は不意に言った。
「え?」
「友情はファーストネームを呼び合うことから始まる。イギリスの諺。私も名前で呼ぶから、紅葉も明って呼んで」
「でも五月さん」
「明よ」
「明?」
「なに?」
  名前を呼ばれて嬉しそうな明の顔を見て紅葉も笑顔を浮かべていた。


7月17日
 小原家の朝は静かに始まる。平日であろうと土日であろうとそれは変わらない。
  自分の部屋から紅葉は足音を立てないようにダイニングキッチンに向かった。
  翻訳家をしている母葉子は一家二人の生活費をひねり出すために、締め切りが重なると徹夜もしょっちゅうだ。きっと朝まで仕事をして、うとうとしているであろう母親を起こすのは悪い。とはいうものの、朝食の支度を静かにするのは結構難しい。
  炊き立てのごはんと、なまたまご、昨日の残りの味噌汁、緑茶という感じだ。
  音量を絞ったテレビを見ながらごはんを食べ始める。
  紅葉には関係ない世界がテレビの向こうに広がっているのがいつもの姿だった。
  どんな大きな不幸でも、小さい幸せも。良いことも悪いこともテレビを通せば、それは娯楽になる。
  でも、今日は違っていた。
「ああ」
  紅葉は箸を止めて、テレビの中を見つめた。そこに映っているのは同じ町内にある小学校だった。
『うさぎ13匹が殺されていたのを飼育係の女子生徒が見つけました。警察では何者かがフェンスを破り、犬を離したと見て捜査を進めています』
  ウサギ小屋の映像が映り、すぐにスタジオに切り替わる。
  紅葉は嫌な気持ちになったままテレビを消した。そのまま食事の手も止まってしまう。
  ほんの少しだったが、うさぎ小屋の床を染めていた黒い血が想像を広げていく。血は黒さを失い鮮やかな赤にと代わり、
「おはよう」
  紅葉は声の方を向いた。
  目をこすりながら起きてきた母親の葉子の姿があった。
「お茶飲む?」
  紅葉は答えを待たずに湯飲みを用意し、母親にお茶を渡した。
「起きてくるなんてめずらしい」
  紅葉に渡された茶を飲みながら葉子は笑った。
「今日は何の日?」
「?」
  葉子はにっこりと笑うと紅葉は眉を潜めた。こんな顔をする時の母親は怒っている時が多い。もっとも母が怒る原因は紅葉ではあるのだが。
「今日は有馬先生のところに行く日でしょ」
  紅葉の顔が崩れた。
「忘れてた」
  葉子はため息をついた。
「今日の5時から」
「あの今日も練習があって・・・」
「一週間前に言ったでしょ。劇をがんばるのもいいけど、先生のところに行って貰うのが、わたしの条件なんだからちゃんと行くようにね」
  紅葉は泣きそうな顔で葉子を見ている。
「分かった。じゃあ、6時にお願いしてみます」
「ママ大好き」
  子供のように抱きついてくる紅葉に向かい葉子は言った。
「ばか言ってないで早く用意して。遅刻しちゃうわよ」
「分かった」
「顔色悪いけどちゃんと寝て・・・るわね。昨日も十時には寝ぼけて歌ってたものね」
「ほんと?」
「ええ。そのおかげで仕事がはかどること」



 紅葉は通学路を早足で歩いてていた。既に始業時間ぎりぎりの事もあって、本当は走ってしまいたい。
  だが、さっきから誰かにつけられているような気がしていた。気のせいかもしれないが誰かの視線を感じるのだ。
  学校でさんざん言われてきたくらがりに出る変質者の事を紅葉は思い出していた。ただ、今は朝。こんな時間に出る痴漢がいるとも思えなかった。
  朝のニュースの映像が浮かんだ・・・学校までもうすぐだ。
「痛」
  紅葉は誰かの背中にぶつかった。
「ごめんなさい」
  紅葉のぶつかったのは20代半ばくらいの男だった。
「大丈夫?」
  男の差し出された手を掴んで紅葉は起き上がった。
「すいません」
「お詫び代わりに少し話を聞かせてもらえないかな」
  紅葉は男の腕章に気付いた。テレビ局のマークが描かれているのを見て紅葉は朝の放送を思い出し顔を強張らせた。
「ぶつかったのは謝ります。でも、すいません」
「本当に少しでいいんだけど」
「そんなにきつい事言わないで。かわいい顔が台無しだよ」
  助けを求めるように周りを見るが、時間的にもう学生の姿はない。
「紅葉遅刻するよ」
  紅葉の肩を捕まれたと思うとすぐに男から引き離された。小柄な紅葉の身体は気付くと校門を抜け、校内にあった。
「ありがとう」
  そこには五月明のメガネをかけた整った顔がある。
「もっと強くならないと」
「急がないと遅刻しちゃうよ」
  紅葉は校舎に向けて走り出した。



 紅葉は街を一人早足で歩いていた。朝もそうだが今日は随分早足だった気がする。
  蔦と煉瓦の壁に挟まれた道にかかる夕日が赤に世界を染めていた。その中で紅葉は朝の五月明の事を思い出していた。
「もっと強くならないと」
  そう言った明の目にあった真摯さを紅葉は怖かった。
「急がないと遅刻しちゃうよ」
  おどけた様子で答えるのが紅葉の精一杯だった。
  そのせいで授業に身が入らなかったし、何より明とうまく話す事もできなかった。
「頼りないものね」
  紅葉は呟いた。
  朝のこともだが自分は頼りない。ぼんやりとしているというか、なんとなく生きている感じだ。
  舞台に立っているときの自分は、自分が自分であることを残しながら違う誰かを側に感じる。いや、自分は横に立っていて誰かになっている。そんな時、世界でも相手にできるくらいなのに、こうして一人歩く自分は小さい。
「もっとしっかりしないと」
  そうしていると見えてきたのは一際目立つ看板だった。『有馬診療所』と大きく書かれている。
  大きな看板の横の小さな通用門を通り敷地の中に入った。一階建ての建物で、戦前に建てられたものだが、清潔な感じがして紅葉は好きだ。田舎にでも来た気分というのか安心する。
  中には黒と三毛と銀毛の三匹のネコがいた。ネコは紅葉に向かって一斉に目をやった。
「こんばんは」
  三毛が近づいてくると紅葉は中腰になってネコの頭を撫ぜた。他の二匹は興味無さそうに毛づくろいをしている。
  まるで子猫のように三毛は紅葉にじゃれついてくる。紅葉が三匹のネコと知り合ったのは5才の時だから10年くらいになる。
  普通のネコは野良猫で3年、飼い猫で10年というからもう老ネコと言えるが、この三匹は初めてあって会った時から変ったように思えない。
「よしよし」
  紅葉が三毛の喉をさすっていると診療所の扉が開き老人が姿を現した。
「おはよう紅葉君」
  その白衣姿の老人が有馬診療所長の有馬暁生だった。
「もう夕方ですよ」
「君は目醒めとるかね?」
「そんなに眠そうですか?」
  紅葉は目を擦った。有馬は頷くと、扉を大きく開けた。
「まあ、入りたまえ」
  有馬は診療所に入った。
「ばいばい」
  紅葉はネコに手を振ると診療所に入っていた。
  三毛はその様子をじっと見ていたが、大きな音でも聞こえたように外へと通じる門の方を向いた。

 紅葉の前にはたまごがあった。
  たまごには多くの星とそれ以上の空隙があった。
  星には惑星があった。
  惑星には大地があった。
  大地に街があった。
  街に家があった。
  家に紅葉がいた。
  紅葉の前にはたまごが・・・・。




「紅葉君」
  呼びかけられ紅葉は我に返った。
  紅葉の前にはたまごがあった。
  さっきまでの広がりが嘘のように、置かれているのはただ石をたまごの形にしたものだ。
  さっきまでこの中に紅葉はいたような気持ちがしていた。それは紅葉だけでなく、世界全てがこの中にあったような錯覚だ。
  いつの間にか部屋の中には灯りがともっている。窓の形に切り取ったように見える外は、もう暗くなっている。
「最長記録だね」
  有馬はにっこりと笑いながら言った。
  壁にかけられた時計を見ると8時近い。二時間あまり観想をしていたようだ。
  確かに今日はできが良かった。まるでたまごの中に本当に世界があるような気がした。そして自分は創造主であり、看視者であり、その中で生きている人間だった。中の紅葉、自分も同じように卵を持っていた。
「今日はここまでにしておこう」
「ありがとうございました。ああ、そう言えば夏に芝居をするんです。先生も良かったら身に来てください」
「君は演劇部だったなシェークスピアでもするのかな?。昔見た紅葉君のジュリエットは背筋が寒くなるほどだったが。もっとも私の趣味でなら君にはテンペストのエアリアルをしてもらうがね」
「いいえ。シェークスピアじゃないんです。先生がご存知かどうか分かりませんが『PANDORA』を」
  有馬の顔が一瞬強張った。
「ご存知ですか?」
「ああ。唐十郎の再来と言われた野外劇だね。もっとも官憲が入ってしまい一度だけの上映だったようだね」
「そうです」
「よく脚本があったものだね」
「図書館にあったらしいですよ。それを先生が見つけてきたそうです」
  有馬は頷いた。
「中身はどんな感じかね」
「悲劇が多いですね。演じている時はとても悲しくなるときがあります」
  8時をしめす鐘の音が時計から響いた。
「すっかり遅くなってしまったな。芝居の方は是非行かして貰うとしよう」
「はい。次に来るときはチケットを持ってこれると思います」
  紅葉は頭を軽く下げた。
  外に出ようとした瞬間、小原紅葉は身体が揺らぐのを感じだ。
  眩暈だった。
  倒れないように机に手をついた途端、大理石の卵が転がった。その卵が壊れるような気がして紅葉はあわてて手を伸ばした。
「だいじょうぶかね紅葉君?」
「どうしたのかな」
  紅葉は大きく息を吐いた。
「疲れているようだが」
「だいじょうぶですよ」
  紅葉は快活に笑ったが、眩暈はまだ続いていた。
「最近物騒だからね。君も気をつけることだ」
「先生もそういうんですね。だいじょうぶですよ」
  ワイドショーの内容を思い出しながら紅葉は言った。
「ああいうものは大抵の遊戯と同じくエスカレートしていくものだからね」
「はい。じゃあ、失礼します」
「うむ」
  有馬は軽く手を振って紅葉を送り出した。



 微かな月の輝きが世界を包んでいる。
  出てきた紅葉に三毛ネコが二度掠れた声で鳴く。
「どうしたの。遊んでほしいの」
  紅葉はネコを抱き上げた。
「何カイル気ヲツケテ」
「え」
  ネコは紅葉の手の中から逃げ出すともう姿は見えなくなった。
「やっぱりわたし疲れてる」
  猫はしゃべらない。目の前で消えられていたらチャシャ猫なのに。
  そう思いながら紅葉は小さく笑った。そのまま診療所の敷地から外に出た。
  紅葉は左右を確かめ不審な人影がないのを確かめて歩き出した。
  家まで慣れた道なのに紅葉は気を張ったまま歩いていた。そうしていると後ろから誰かがついてくるのが分かる。
−試してみよう−
  紅葉は靴紐を結ぶ振りをして中腰になった。ついてくる足音も止まっている。
  紅葉の頭に明の言葉が蘇った。

 「もっと強くならないと」
 
  紅葉は立ち上がるときっと前を向き走り出した。
  すぐ見えてきた曲がり角を曲がり、紅葉は立ち止まると、カバンを両手で持った。
  耳をすまし追いかけてくる相手を待つ。足音が近づいてくる。
  誰かが角を曲がってくると、紅葉はカバンで殴りつけた。不意を疲れたせいで角を曲がってきた男は倒れた。
「なんなの」
  紅葉は転がった相手を何度も殴りつけた。
「落ち着いて。朝あっただろ」
  紅葉は手を止めた。そこに転がっているのは朝あった青年だった。
「朝のテレビ局の人?」
  それでも気を許さずに紅葉は男と距離をおいていつでも逃げれるように身構えている。
「そんなに警戒しないで小原紅葉君」
「あなた誰?」
「宇賀史明。帝テレのディレクターだ」
「それでストーカーなの呆れた」
  宇賀は大げさに手を振った。
「子供に興味はないよ」
−それはそれでむかつくかも−
  紅葉は複雑な気持ちで宇賀を見た。
「それで何の用なんです。人の名前まで調べて」
「調べるも何も君は有名なんだな。在校中、3年連続で主役を勤められなんて珍しいそうじゃないか」
「劇はみんなで作るものです。主役だけが嬉しいなんて勘違いよ」
「悪かった。実は君に聞きたいことがあってね。朝、君を助けた娘について聞きたいんだ」
  宇賀は人懐っこい笑顔を見せた。
  



  小原紅葉と宇賀史明のいる池之端公園はどこの住宅地にでもあるような公園だった。
  ブランコと滑り台、砂場くらいしかなくあまり広くはない。
  昼間は子供達の声が、夕方には学校帰りの中学生が集う小さなオアシスも灯りのつくこの時間誰もいない。
  街灯の小さな明かりの中で塗装の剥げたベンチに宇賀史明が座るのを小原紅葉はじっと見た。
  手はいつでも殴れるようにカバンをぎゅっと握っているし目も不信に裏打ちされている。
  宇賀はそんな紅葉の姿に苦笑を浮かべた。
「まずは質問せずに俺の話を聞いて欲しい」
  紅葉は頷いた。
「今から三年ほど前になる。この街みたいなあるベットタウンで火災があった。その家には姉妹がおり、妹の方は暫く前に行方不明になっていた。家の中では両親が死んでおり、大量に出血があった。そして姉の遺体が出なかった」
  紅葉は頷いた。
「その姉妹の一人が五月さんって言うんですか?」
「姉の方だと思う。火事の後、妹の方は身体こそ出てこなかったが、大量の血液と服。キティの時計とか、遺留品が発見されている。大丈夫かい?」
  宇賀がそう言うのも分かるように紅葉の顔は悪くなっていた。
「いえ続けて」
  そう答える紅葉の中には被害現場がフラッシュするように見えていた。
  廃工場、墓石のように並ぶさびた無数の工作機械。
  それが実際のものから分からないが、鼻が酸っぱくなるような血の臭いまで感じられた。
「結局、姉妹は二人とも現在にいたるまで発見されていない」
「それだけじゃ五月さんがそのお姉さんだっていう説得力がありません」
  紅葉は必死に言った。それは五月明を信じているからではなく自分の中で生じていくイメージを抑えるためだ。
「証拠はある」
  宇賀の顔から今まで見えていた軽薄さが消える。
「俺は彼女に会った事がある。よく覚えてる」
「どうして同じ人物だって言い切れるんですか。だって三年も前なんでしょ。それに指紋とか物的証拠は?」
「何も無いよ。きっと背も伸びたろうし、髪型も、整形してれば顔も違うだろう」
「じゃあ、でたらめじゃないですか」
「あの眼が忘れられない。妹を探して走り回っていた彼女の眼を」
  宇賀は紅葉ではなく何か違うものを見ていた。紅葉の中に知らない少女の姿が飛び込んでくる。少女は誰かの名を呼んでいた。その少女の顔は。
「それからすぐだったよ彼女の家が火事になったのは」
  紅葉は宇賀の顔を見た。
「瞳の輝きまでは整形でも変えられない」
  少女のイメージと五月明のイメージが重なっていく。
「気分大丈夫?」
  紅葉は頷きながら言った。
「埋立地だったんですか妹さんを差はしていたの?」
  宇賀の顔色を見てそれが真実なのが紅葉には分かった。
「君はやっぱり何か」
「ごめんなさい」
  紅葉は駆け出した。

小原紅葉は帰路についていた。
  町はいつも以上にひっそりとしているようだった。
  昨日の夜、宇賀史明と話した時に感じたようなイメージの奔流はなくなり、変わりに重い疲労が身体に残っていた。そのまま一日を過ごしてから上がった舞台。
  舞台に立ち、違う誰かを演じていると、何から力を貰ったように紅葉は元気だった。
  練習が終わったあともその元気は続いている。
−昨日はおかしかったよね−
  有馬研究所での治療と、思いがけない話のせいで気が高ぶっていただけだ。
  紅葉は身体を伸ばした。大きく伸ばした手は空にも届きそうに思える。
「紅葉」
  振り返ると小松成美が手に白いウサギを抱いて立っている。
「あれどうしたの?」
  部活で別れたが方向が違うのでこちらにくることはないはずだった。
  成美は何も言わずに近づいた。
「そのウサギ、どうしたの?」
「不思議の国から迷い込んできたみたい」
  何と返していいか困っている紅葉に成美は小さく笑った。何か嫌な笑い方だった。
「事件の時に逃げ出したみたいで、拾ったの」
「そう。子供たちも喜ぶね」
  紅葉に向かってウサギは猫が甘えるように飛びついてきた。顔をすりつけてくるうさぎに紅葉は笑った。
「だめだよ」
「お約束ね。やっぱりウサギもかわいい娘が好きみたい」
  その言葉の響きのきつさに紅葉は驚いて成美を見た。
  始めてみる成美の表情だった。いや、表情ではない。憎悪という思いが顔を仮面のように固めている。
  そう思った紅葉の顔が張り飛ばされた。驚いたウサギが紅葉の手から逃げ茂みの中に消えていく。
「あんたの事は最初から気に入らなかったのよ。『わたしはお姫様』みたいな顔して、三年間あんたはあっさり主役でわたしはプロンプタ(黒子)。笑ってたんでしょ」
「そんなことない」
  紅葉は成美を見ながら言った。
「そんなことないよ。劇はみんなで作るものだもの」
「奇麗事ばっかり言って」
  成美が再び手を振り上げた。紅葉は傷みに耐えようと目を閉じた。痛みは来なかった。
「何するのはなせよ」
  目を開けると五月明が成美の手を抑えていた。
「明」
「離せ」
  成美は明から逃れようと暴れた。
「いいよ」
  明が手を離すと成美は、憎憎しげに明を紅葉を見た。そしてウサギを茂みから引っ張り出し走り出していった。
「ありがとう明」
  紅葉はおどろいていた。明の顔にも仮面のように硬い表情が張り付いている。
「もっと強くならないといけないよ」
  紅葉は頷いた。
  強くならないといけない。だったらできることはなんだろう。
「だからいくね」
  成美の追おうと明に背を向けた。
「どこにいく気?」
「成美のところ」
  明は驚いたように目を大きく見開いた。そして大きくため息をはいた。
「私が見てくるからあなたは家に帰りなさい」
「だって」
「帰りなさい。さっきの彼女の様子から、紅葉がいっても同じことになるわ。まだ、私の方が落ち着いて話せるかもしれない彼女も」
  明の強い視線に紅葉は頷いた。
「頼むね。いつもあんな子じゃないの」
「任せておいて」
  明は成美と同じ方向に走り出した。




  紅葉は足音を立てないようにダイニングキッチンで料理をしていた。
  どうも食欲がないせいで飲み込んでいけそうなものがいいと、おじやを作っていた。
  母親の葉子はどうも疲れて眠ってしまっているようで、一人分だけ作ればいい。冷凍してあったゴハンをレンジで暖めて、その間にカツオぶしでだしをとっていた。
  成美の事が思い出された。成美があんな風に自分を思っていたと思うと気がめいってくる。
「どうして気付いてあげなかったんだろう」
  今まで積み重ねてきた思い出の一つ一つ。
  その中で成美はいつも近くに居た。そんな彼女の笑顔の後ろで、あんな苦痛があったのだと思うと。
  紅葉はゴハンをだし汁の中に混ぜた。沸騰したところを見計らってタマゴを割るだけだ。
「わたしたちの世界もこんな風なのかな」
  有馬研究所でした訓練を思い出す。そう考えれば自分の悩みもきっと小さなものかもしれない。でも、タマゴを持っている紅葉は中にいる紅葉を知っているのだろうか?
  電話が鳴った。
  紅葉は電話に出た。
「おはようございます。え、成美が。昨日は別々に帰ったんですけど、まだ帰って
ないんですか?」
  成美とそれを追っていった五月明の姿が紅葉の頭に浮かんできた。
  紅葉が物思いから抜け出すことができたのは、おじやがこげた臭いのためだった。


7月18日
  教室に入った紅葉はTスクエアの音楽のかかる中、明の姿を探した。しかし、明は学校に来ていない様子で、机にはカバンはおろか、荷物がまるで無かった。
『確かめなきゃいけないのに』
  予鈴が鳴り、教室に入ってきた村上春子の表情の暗さにいつもは騒がしい教室が静けさに包まれる。
「昨日から小松成美さんは家に戻っていません」
  教師の悲痛な表情が移ったように騒がしさが増した。
「静かに。心辺りがある人は私の方も言うようにしてください」
  言葉を聞きながら紅葉は成美と一緒に消えていった明の事が思い出された。
  そのまま授業が始まり一日が過ぎた。明も成美も姿を見せることはなかった。ホームルームの中で部活の停止が告げられた。
  帰ろうとした紅葉は声をかけられら。
「小原さんちょっと」
「なんですか?」
「警察の方が小松さんのことを聞きたいそうなの。先生も、校長先生も同席するから、お話をしてもらっていいかしら」
「分かりました」 
  校長室に呼ばれ、校長と村上春子担任の同席で警察から事情聴取を受けていた。
  どこかお笑い芸人に似た顔の刑事の話は割合シンプルだった。何か心当たりはないか? というだけで、詳しく聞いてくることはなかった。

 いつもならこの時間に帰れば何人かは会う生徒たちともまったく会わない。それもそのはずだった。結局、学校側は全ての部活を停止にし、早期の下校を指導したのだ。
  峰台中学校だけでなく回りの小学校や、高校も同じ事だった。
『なにかおかしいよ』
  小松成美が失踪しただけでなく何かがこの辺りで起きている。
  道に映る紅葉の長い影に別の影が重なった。
  影の先にはリネンのワンピースを着た五月明の姿があった。
「紅葉」
「明」
  そういう紅葉の声にはおびえが混じっていた。
『逃げちゃだめだ』
  紅葉が怯えているのは明なのに、逃げずに向かい合おうとする強さのもとが、明の言った言葉なのが皮肉だった。
「ねえ、時間ある」  
                    


 いつもなら池之端公園で遊んでいる子供たちの姿はない。
  紅葉と明はベンチに座った。
「何か用なの」
  そういう明の目は優しい光が見えている。
「ねえ、明。成美を、小松さんが行方不明になって?。あなた知ってるんじゃないの」
「どうして。昨日紅葉の事でもめた後の事を言ってるの?」
  メガネの向こうの明の瞳は迷い無くまっすぐ見ていて紅葉の方が気弱になりそうになる。
「どうして私が知ってると思ったの」
「妹さんも行方不明になってるんでしょ?」
  明の瞳が揺らいだ。でも、紅葉が気のせいかと思うくらいの長さですぐ静かなまなざしが戻る。
「誰にそんなでたらめを聞いたの。私に妹はいないよ」
「俺だよ。真由美さん」
  現れたのは宇賀史明だった。



 今までは人のよさそうなな印象を受けた宇賀史明の顔は紅葉が見た事も無い表情を湛えていた。それはきついものながら、懐かしさを抱いている顔だ。宇賀の中でもその感情は整理されていないのだ。
「宇賀さん」
  紅葉の声に答えもせずに宇賀は五月明を見つめた。
  明は宇賀の視線を揺るぐ事無く見返している。
「紅葉にからんでいたレポーターですね」
  明は言った。
「俺の事覚えてないかな?。妹さんの家庭教師で」
「何を言われているのかよく分かりませんけど」
  宇賀から目を離し明は紅葉を見た。
「君は保坂真由美なんだろ?」
  紅葉には明の顔は落ち着いていて冷静に思える。でも、その冷静さの中に芝居の匂いが紅葉には感じられた。
  うまく演じようとしてしまって逆に演じているのが見えてしまう。今の明はそんな風だ。
  それでも十分だった。宇賀がそれ以上言葉を紡ぎのを止めるような強さがあった。
「行きましょう」
  明は紅葉の腕を掴むとそのまま歩き出した。 
  歩いているうちに日はもう完全に暮れ、夜になっていた。
  そのまま明は一言も口にする事は無かった。
  怖いがそれよりも知りたかった。自分の見たビジョンが真実なのどうかを。
  紅葉は深呼吸すると足を止めた。
「私工場を見たの。明がいる工場を」
  少しだけ先を行っていた紅葉は立ち止まった。
「見えたんだ。そっか」
  そして振り返った明の顔。夕焼けの中に見えるのは見た事の無い少女の顔だった。それは一瞬でいつもの明の顔だった。
「私ね妹がいたの。双子の妹。でもね妹はもういないの。私か妹、そのどちらかでも強ければ、私達はまだ一緒にいられたと思う。でも、私は強くなかった。強がってはいたけれど」
  明の目が潤み、ゆっくりと涙が流れた。
「だからあなたは強くなって」
  明は涙を拭くとそのまま背中を向け早足で歩き始めた。
「それじゃ、また」
  明は歩き始めた。
−ごめんなさい−
  紅葉は心の中で呟きながら明を見送った。
「だからあなたは強くなって」
  明は涙を拭くとそのまま背中を向け早足で歩き始めた。歩いているうちに涙が流れてきた。自分がいってしまった酷いことがどれだけ明を傷つけたのか。宇賀という人の言葉にのせられて自分は何をしたのだろう?
  友達を傷つけただけだ。
  気付けば家の前だった。
  猫の鳴き声がした。声の方には猫が立っている。
「気ヲツケ・・・」
  鳴き声に混じるようにそんな言葉が聞こえた。
  紅葉は息を潜めながら自宅のドアノブに触れた。大きな火花が飛ぶ。静電気にしては痛みの残る感触が手に残る。
「ただいま」
  玄関に入る。いつもなら答える母親の声がない。どうしてそんな風に思えたのだ。
  紅葉の中で違和感が大きくなる。ボタンを掛け違えているようなそんな感覚。
  それを押し殺すように紅葉はできるだけいつもの声で言った。
「お母さん?」
  紅葉は転がりそうになりながらリビングに行く。母親の葉子の姿はない。
  ドアが開く音がした。
「お母さん」
  紅葉は安心しながら玄関に向かって駆けていった。
  玄関では葉子が近所のスーパーの買い物袋を持って帰ってきたところだった。
「ただいま」
  こっちからいうのはおかしいと思いながら紅葉はそういっていた。母親は困ったように笑った。
「おかえりなさ・・・」
  紅葉は声を止めていた母親の後ろに見える何かの赤いもの。
  それはあの夜見た犬の目の輝き。
「おかあさん」
  自分の声が震えているのが紅葉には分かった。
  葉子は叫んだ。
「逃げて紅葉」
  葉子の身体が前に倒れる。紅葉は母親を抱きとめた。紅葉の手が血に染まった。
「ごめんなさい紅葉。あなたを辛い目を合わせたくなかったのに」
  葉子の背中から滲んだ赤が広がっていく。
「おかあさん。わたしを一人にしないで」
  悲鳴を含んだ紅葉の声を聞きながら、笑っているものの姿があった。
  そう、それはウサギだった。
  小松成美が拾ったウサギ。しかしその目は赤く、凶暴な気配に満ちている。
「手間カケサセタナ」
  ウサギは話していた。本来、発声する器官でもないにその声ははっきり聞こえた。そうそれは紅葉の頭の中に響いてくる。
「アノクソ女サエイナケレバモウオワッテイタノニ」
  そのノイズのようなものが紅葉を激しく苛立たせる。
  紅葉は葉子を背負った。不思議なくらい葉子は軽かった。
「どいて」
  ウサギは笑った。
「オマエハヨリ大キナモノト一ツニナル。子葉ナドモウヒツヨウナイ」
「紅葉生きて」
「おかあさん」
  重さが増した。
「おかあさん」
  紅葉は背負っていた母親を見た。そこにはぬくもりを失い、ただのものになっていく母親の姿があった。
「おかあさん」
  紅葉の目から涙が滲む。
「もう嫌だ」
  涙がこぼれた時、光が紅葉の身体を包んだ。





  紅葉は池之端公園にいた。
  水道に口をつけて一気に水を飲む。
  震えは止まらなかった。
  紅葉は自分の手を見た。赤く染まっているのは母親の血の赤さだった。
  その血を見ながら紅葉の中で何かが動いた。それは紅葉自身が忘れていた何か。
−なんだろう・・光、女の人・・・何だろうこれ−
  ずっと前、芝居を見た。そうだ。PANDORの芝居。
「紅葉」
  聞きなれた声に紅葉は振り返った。
  公園の入り口には小松成美が立っていた。街灯の光の中に立つ成美はいつものように元気よく手を上げた。
「成美」
  制服姿の成美は日常の姿だった。いつもと変わらない平穏が涙が出るくらい嬉しい。
  紅葉は成美に向かい走っていった。
  成美の笑顔が見たことも無いくらい引き締まった。その顔が凍えるように強張った。紅葉は振り返った。
  その成美の視線の先にいるのは一人の少女の姿だった。変事の先駆けとなった黒犬から紅葉を救った少女。
「だめ」
  紅葉の声など聞こえぬように少女は刀を抜き放った。
  一閃。
  切られた成美の身体が崩れ落ちる。
  力を失い倒れる成美の身体を紅葉が支えた。
  街灯の光の中に少女が歩みよる。
「どうして明?」
  その少女は五月明に他ならなかった。
  紅葉の問いに答えず明は成美の身体を引き離そうとする。紅葉はそれを阻もうとする。
「離れなさい」
「嫌」
  紅葉は明の前に立ちふさがった。
「成美は私の友達。だからだめ」
「あなたも取り込まれたいの?」
  明の言葉に答えず紅葉は成美を守るように抱きしめた。
「痛いよ」
  その声に紅葉は成美の事がよく見えるように体を離した。
  元気な声に、安堵する紅葉の心が怯えに変わる。
  閉ざされていた成美の目が開いた。そこにあるのは赤。
  襲ってきた黒犬や、母葉子の命を奪ったウサギと同じ光。
「どうして」
  離れようとする紅葉の手を成美は力強く押さえた。
「逃げちゃ駄目だよ紅葉。だってあなたは一部なんだから」
「成美?」
  成美が姿だけを残してまったく違うものになってしまっているのが紅葉には分かった。
  それでも友人のその姿に紅葉は何もできずに赤い唇が自分に近づくのを見つめていた。

 近づいてくる赤い唇が不意に止まった。成美の身体が倒れてくる。成美の胸から刃の切っ先がかすかに覗いている。明の持った刀の刃が裏から貫いていた。
  成美は倒れた。
「どうして殺したの」
  成美の身体が冷たくなるのを感じがら紅葉は明を責めずにはおられなかった。明の目が悲しみのためか潤んでいるのを知りながらも。
「それしか手段が無いから」
  明は呟いた。
「殺すなんてだめだよ。そうやって妹さんも殺したの?」
  明は詰られて目を細めた。
「どう思ってくれてもいい。だから逃げて。ここはまずいの」
「モウ遅イ。カロン・カコンがくる」
  成美の口から血の泡と共に言葉が吐き出される。息は冬の最中であるように真っ白だ。
  空気が震えた。
  まるで森の中にいるような清浄な空気が不意に公園に吹き込んでくる。
  ボックスの公衆電話が音を立てて歪み炎と煙を上げる。しかし炎はまるでなかったように消える。
  霧が出始めた。
「寒い」
  気温が下がったのか寒気が紅葉の身体を包む。
  頭の中で声が聞こえた。それは美しい声。
  明はボックスに向かい表情を一切なくした顔で向かい合っていた。
  いつの間にか現れたのは一人の少女だった。
  ただ白い布を身にまとったような天使とも女神とも思える姿。その顔は半ばまで隠されている。
  しかし紅葉はその顔を知っていた。それはずっと前舞台で見たPANDORAの顔。そして、夕焼けの中、明の中に見えた少女の顔。
「妹さん?」
  明は大きく首を横に振った。
「妹だったものよ」
  少女は紅葉と明を見つめた。
  穏やかな神秘的とまで言っていい表情。
  少女は宙を舞った。気づくと少女の顔は紅葉の眼前にあった。
  赤く冷たい目の輝き。
「還りなさい」
  ゆっくりと紅葉に向かい少女の手が差し出される。
  紅葉の身体が大きく弾かれる。
  明が割って入っていた。
  少女の手が明の手に切り落とされていた。血が流れ落ちる。その血の流れが止まり細かな光の粒に変わる。血だけで無かった。落ちた腕も細かな光の粒となると少女の手に戻った。
  明は刀を構えながら飛び込む。
  少女は手を軽く振った。その先に見えない何かが生じたように明は動きを止める。
  地面が大きくめくれる。工事現場のように穿たれた穴は少女の持つ見えない力の強さを秘めている。
「逃げなさい」
  動かない紅葉に向かい明は叫んだ。
「あなたがいたら集中して戦えないの」
  紅葉は振り返る事無く走り始めた。

どれだけ走ったろうか。もう公園は視界に入ってはいない。
  後ろから聞こえてくる音だけがそこで何かが起きているのを伝えてくる。音は不意に止まった。
  明はどうなったんだろう。成美ももしかしたら生きているかもしれない。そんな考えが脳裏をよぎった。自分はいかなくてはならない。
  紅葉は立ち止まると、公園に向かい走りだした。
  公園の上に見えたのは明だった。
  明の体が高く浮かんでいる。それは子供がいらついてボールを投げるような勢いで地面にたたき付けられる。明の体は二度三度と地面を跳ねた。体が砂にまみれ服は赤いものが点々と見えている。
  それでも明は立ち上がろうとしていた。その体からは生気は感じられない。もう立っているのがやっとのように思える。でも、その目だけはまっすぐに一点に向けられていた。
  刀を持って低く構えて明は走り出した。明の視線の先にいるのは少女だ。少女は手を振った。紅葉には見えないが何かを切り裂くように明の刀は宙を払う。だが、近づくに連れてなぎ払う事もしなくなる。明は傷つくのもかまわず少女に向かっていく。少女は手を振るうのをやめて明に飛び込んでくる。
  少女の手を交わし、明の刀が伸びた。だが、刀は少女の手に払われた瞬間砕ける。
「だめ」
  紅葉は飛び込んだ。
  明の驚いた顔が近い。何かいおうと思った。
「ごめんなさい」
「ありがとう」
  そんな言葉は口から漏れる事はなかった。
  紅葉は背後から光を感じた。それは紅葉の意識を書き換えていく。今までの紅葉の記憶がきれいな光になっていく。きっと自分がみんな日価値になったときに死ぬのだろう。
  明は背後を見た。光の中で胸に光を抱いている女の姿が見えた。彼女は目を閉じている。
  その姿は不思議と懐かしい。そう彼女の姿も昔舞台で見ていた。
『PAN』
  名前を呼ぼうとした時、口が塞がれた。横を見れば明が立っていた。その後ろには明がもう一人立っている。それは先程の少女と同じ姿だが、何かが違っていた。
  明につかまれた瞬間、自分が光になるのは止まっていた。
「紅葉、その名をいうのはダメ」
「名前を呼ぶときちゃうんだよ。あなたもあたしと同じで舞台しているから分かるよね」
「亜由美、黙っていて」
  少女は頬を膨らませながらもだまった。
「目を覚ませば、少しだけ変わってしまったけど、あなたの世界が待っている。自分がしらないものや記憶にさらされるかもしれないけど、それは夢のようなものの。あなたはあなただから。強くなって。自分自身の為に」
「明?」
「その名前も忘れてしまいなさい」
  明の体が消えていく。そして亜由美と呼ばれた少女の体もまた。それは先程のように目を閉じた女の中に消えることはなく紅葉の中に入ってくる。
  それは様々な物語。
「さよなら」
  明と少女の体が消え去った。
  紅葉は公園に立っていた。そこには誰の姿もない。紅葉は黙って明の持っていた刀を拾い上げた。刃はまっずぐに光を返していた。

 草一本生えていない寒々とした空き地に立って宇賀史明は小さくため息をついた。
  そこはかつては小原家のあったところであった。小原家が火事に襲われてから一月あまりが過ぎている。
  保坂真由美、亜由美、そして小原紅葉。何もする事ができずにまた今を迎えてしまった。
「宇賀君」
  穏やかな声がかかった。
  宇賀は見ながら驚きの声を上げた。
  有馬暁生。大学生活最後の夏にあった忘れられない人物の一人だ。
  その記憶は常に一人の少女に結びついている。だから今日まで連絡をとることはしなかった。
「有馬さん」
「久しぶりだね宇賀君。時折テレビで君の姿を見かけるよ」
「ありがとうございます」
「君はどうしたのかね?。こんなところで」
「ちょっと取材でして」
  言ってから軽装すぎる自分に宇賀は苦笑した。半休をとって自分自身に整理するために来たのにそれを見せないようにする自分が滑稽だった。
「時間あるかね?」
  宇賀は時計を見た。時刻は10時。
「16時までに戻ればいいですから大丈夫です」
「それは良かった」
  有馬は穏やかに笑みを浮かべた。
「では付き合ってくれ。実は芝居の券を貰ったのだが・・はは、一人住まいの寂しさで一緒に行くものもいなくってね」
「はい」
  二人は連れ立つと道を歩き始めた。


8月18日
 宇賀は宮本三百人劇場の観客席にいた。
  規模は300人ほどだが公立の高校の敷地内の施設の中では珍しく、しっかりした照明施設と音響施設が整っているから千葉ではよく舞台が行われるところだ。
  あの時を境に消えた二人の少女の事が思い出される。
  小原紅葉、そして五月明・・保坂真由美の事も。
  照明が暗くなり、アナウンスが入る。
「ただいまより「PANDORA」を開演いたします」
  そして幕が上がった。
  闇に包まれた舞台。背景の山を思わせる景色が見える中で、少女が一人上手から現れる。
「つらいことや苦しい事っていっぱいあると思う。でも生きているのってそんなに悪いことじゃない。わたしはそう思うの」
  スポットライトの白い光が少女の姿を照らし出す。その姿は。

 幕が降り、劇場の中にも光が戻る。しかし誰もが今見た何かに捕らわれたように立ち上がることは無かった。
  カーテンコールが始まったが、その中に少女の姿はない。
  宇賀は涙を拭きながら立ち上がると外に向かい飛び出していった。
  黒く塗られた鉄柵の向こうに宇賀は目的の少女を見つけた。
  劇場の前の道路に少女が歩いていた。距離は遠くない。だが高い柵が二人の間を挟んでいる。
「小原くん」
  少女は宇賀の方を見た。
  そこに立つのは小原紅葉の姿だった。だが、その印象は変わっていた。目の輝きはまっすぐ澄んでいて前よりもずっと落ち着きをもって思えた。
「宇賀さん、明が、真由美が『ありがとう』って」
「真由美くんは?」
「ここにいます」
  紅葉は自分の胸に手を当てた。それが心の中にいるという意味なのか他の意味なのか宇賀には分からなかった。
「私にも明にも、もう近づかない方がいい」 
「待ってくれ。また君は舞台に立つのか?」
  紅葉は道路を渡り歩き始めた。
「君の舞台をもう一度見たい」
  車が通り過ぎる。
  まるでそこにシーンの切れ目でもあるように紅葉の姿は消えていた。
  走りかけて宇賀は立ち止まった。何かわかった気がした。この喪失感は二度目だった。
「行ってしまったようだね」
  振り返ると有馬が立っていた。
「はい。やはりあなたは知っていたんですね」
「彼女とは随分長い付き合いになる。それこそ孵った時から」
  有馬は大きく息を吐いた。安堵のような、恐れのような混じった息。
「彼女は今日新しい舞台に立ったのだ。現実というね」
posted by 相会一 at 18:36| Comment(0) | BeforeBabel PANDORA | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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